
2024年01月17日
自分を疑う必要性
今は世間を見渡しても、ネット(ブログ、SNS、YouTube)を見渡しても「自分が正しいと信じて疑わない」人ばかりだと感じます。
「自分が正しいと信じて疑わない」人とは、一言でいえば「傲慢」な人です。
どこもかしこも「何様」になって、評論家のように誰かや何かを上から目線で語ったり、他人を小バカにしている人で溢れているわけですが、スピリチュアリストにもそういう人が大勢いるので本当にため息が出ますよね。
僕も(今は特に)気をつけていることなのですが、何かを言ったり、ブログ、SNS、YouTubeで発信する際は常に「動機」を見つめる必要があります。
そして、「動機」に大我の愛、他者の幸せを願う利他愛、慈悲の心、謙虚さがあるのか厳しくチェックしないといけません。
ただ、人というものはどうしても自分に甘いというか「傲慢」なので、自分の言動の「動機」は大我の愛であり、自分がしていることは誰かや世の中のためであり、自分という人間は悪を正す正義(善)だと勘違いしてしまう傾向にあります。
だから、もっともっと「自分を疑う必要がある」わけです。
よくスピリチュアルな本やブログでは「自分を信じること」が説かれていますが「自分を信じること」はもちろん大切です。
でも、「自分を疑うこと」はそれと同じくらい、いや、それ以上に大切なことだと僕は感じています。
(霊感が強い人と、スピリチュアルを学ぶ人は特に。)
他人のことを批判したくなる時や、他人の未熟さや傲慢さが目に付く時ほど、自分自身の未熟さや傲慢さに目を光らせなければいけません。
見るべきは自分。
変えるべきも自分です。
自分が正義(善)であるという気持ちには「傲慢さ」が表れています。
だから、他人の未熟さや傲慢さではなく、自分の未熟さ、傲慢さを常に見つめ、自分の中にある気づかぬ傲慢さに気づき、傲慢さを少しずつ削って小さくしていくことなのです
傲慢に生きれば行きつく先は破滅と不幸です。
だから、幸せになるためには自分を信じ、自分を疑い、謙虚に生きていくことなのだと思います。
「自分が正しいと信じて疑わない」人とは、一言でいえば「傲慢」な人です。
どこもかしこも「何様」になって、評論家のように誰かや何かを上から目線で語ったり、他人を小バカにしている人で溢れているわけですが、スピリチュアリストにもそういう人が大勢いるので本当にため息が出ますよね。
僕も(今は特に)気をつけていることなのですが、何かを言ったり、ブログ、SNS、YouTubeで発信する際は常に「動機」を見つめる必要があります。
そして、「動機」に大我の愛、他者の幸せを願う利他愛、慈悲の心、謙虚さがあるのか厳しくチェックしないといけません。
ただ、人というものはどうしても自分に甘いというか「傲慢」なので、自分の言動の「動機」は大我の愛であり、自分がしていることは誰かや世の中のためであり、自分という人間は悪を正す正義(善)だと勘違いしてしまう傾向にあります。
だから、もっともっと「自分を疑う必要がある」わけです。
よくスピリチュアルな本やブログでは「自分を信じること」が説かれていますが「自分を信じること」はもちろん大切です。
でも、「自分を疑うこと」はそれと同じくらい、いや、それ以上に大切なことだと僕は感じています。
(霊感が強い人と、スピリチュアルを学ぶ人は特に。)
他人のことを批判したくなる時や、他人の未熟さや傲慢さが目に付く時ほど、自分自身の未熟さや傲慢さに目を光らせなければいけません。
見るべきは自分。
変えるべきも自分です。
自分が正義(善)であるという気持ちには「傲慢さ」が表れています。
だから、他人の未熟さや傲慢さではなく、自分の未熟さ、傲慢さを常に見つめ、自分の中にある気づかぬ傲慢さに気づき、傲慢さを少しずつ削って小さくしていくことなのです
傲慢に生きれば行きつく先は破滅と不幸です。
だから、幸せになるためには自分を信じ、自分を疑い、謙虚に生きていくことなのだと思います。

Posted by スピリチュアリスト 直希 at 21:00│Comments(0)
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